さいきんのデジタルコンテンツは情報量が多いから、みたいな話をよく聞きます。

実際に私が子供のときに比べると、おびただしい数のコンテンツがオンライン上で公開されるようになりました。

私に関して言うと、書籍はkindleで読むケースが増えてきましたし、音楽はapple musicで聞きます。映画はAmazonで観るし、google  ストリートビューで海外の景色を見たりします。

アナログ派のひとがデジタルを批判するときの定型文に、かつては「デジタル化されたものは情報量がアナログに加えて少ない」とありましたが、さいきんのVRコンテンツはさらに進化して、そうも言ってられなくなってきました。

個人的には非連続のデジタルと、連続性のアナログコンテンツはそのうち一つになると思いますので、二元論にあまり興味はありません。

大切なことは、情報が加工されているという事実を忘れないことだと思います。すなわち、コンテンツとは自然界の情報の最適化であると。

自然界に存在する純度100%の豊かさは、今日ではどのような形であれ私たちの手元に届くまでに細工が施されています。

この細工のことをクリエイティブと呼びます。そこから、ある種の問いかけを示唆するもののことを、私たちはアートと呼びます。

より伝えやすくするために加工されたものもあれば、ある種のビジネスモデルに最適化されたものもあり、そういったコンテンツは売り手優位のロジックで作られています。

宮崎駿さんが、

「さいきんのアニメーターは、本物の火を見たことがない。だから火が書けない」

といったことをボヤいていましたが、コンテンツとして加工されていないオリジナルを知らないと、スカスカのコンテンツしか生み出せなくなります。

コンテンツ=最適化された情報を手段として使う場合は特に、元になる本質的な現象は何なのか、常に問いかけていたいな、といつも思います。

渡邊勇介拝

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