以前にも書きましたが、人と人とをつなぐ、
人がつながるために、表現があるのだとすれば、大きくわけて二つのコミュニケーションが世の中には存在します。
ひとつは言語。もうひとつは非言語。

データ化されたコンテンツもこの二種類。文字による発信と音楽や映像、画像による発信、それからインターネットを使っていると忘れがちだけど、
人と人とが触れ合うときにも非言語でコミュニケーションをとりますね。

(僕はよく、言葉が強いと言われますが、どちらかというと受信するときは非言語のほうがはっきり理解できます)

言葉っていうのは本当に便利なのですが、あまりに便利すぎてとても危険なところがある、とある有名なデザイナーが言っていました。
誰でも使えるから、意味の深さまでは考えずになんとなく広まる。
簡単に発信できるから、誤解を招く。政治家の失言、etc….

ただ、コミュニケーションの入り口をつくるときは言葉が強いほうがもちろん有利です。
なぜかというと、これは人間の顕在化されたイメージ(すでにその人のなかに問題としてあること、いつも考えていること)
を手軽に共有できるからです。

映画や本をつくるときに、プロデューサーがいちばん考えるのはタイトル。
(タイトルをつけるっていうのは編集者やプロデューサーの大切な仕事です)
優れたプロデューサーは、言語の表現にも非言語的な(行間を読ませる)空間を生み出すことができます。
誰かの言葉を「深い。。。」っていうのは、非言語が持つ深さを芸術に昇華できている場合に使いますね。

しかし、いったんイメージを共有することができたあとは、
非言語によるコミュニケーションが必要不可欠になってきます。

音楽や画像による共有はもちろん、リアルの場所での空気の共有。
顔の表情、いっしょにいる場所。立ち振る舞い。喜怒哀楽。
つないだ手。握手。ハグ。ただそこにいること。姿勢を見せること。
ビジョンを行動で示すこと。抱き合うこと。

あなたのことが好き、と伝えて共有が終わったあとは、
非言語のコミュニケーションでそのひとの深さを知ったりします。

言語はとても便利ですが、相手に何かを伝えるときには、
ロジックを使って筋道を立てなくてはいけないので、
反論される余地が常にあります。

仮説の数だけ結論があるから、
別のロジックで戦えばいくらでも論理展開できるから。
弁護士によって腕が違うのもこのためですね。

だけど、非言語はロジックから解放されているので、
圧倒的な表現の前には誰も反論できません。

ただ深く伝わる。
ピカソの絵を見たときに、言語による解説(ストーリー)を付随させて、
そのあとに絵による衝撃を受け取る。するとひとは反論できない。

ターミネーター2のラストで、
親指を立てて沈むシーンに言葉はいらない。

すきな人といるだけで楽しい。

いまの時代が、デザイン思考からアート思考に移り変ろうとしているのは、
世界のロジック(主に金融資本主義の)が行き渡ったあとに、
非言語のコミュニケーションによる世の中に移行している最中だと僕は思っています。

商売に使うかどうかは置いといて(じっさいに使えますが)、
非言語の強さにもう少し向き合う時代かも。

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